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少し難解な曲なので、レコーディングをする前に彼女達に少しでも曲理解をして貰いたいなと思い、簡単なエッセイ的なものを用意して待ち時間に読んで貰いました。それを新たに少し編集してここに書き残しておきますので、より深くこの曲を楽しみたいな、と思ってる方が居たら合わせて読んでみて下さい。

僕が何かを考えてこの曲を書いたわけですが、作者が僕であるからと言ってそれが絶対的な正解であるとは思ってません。作品は作る人と受け取る人が居て、たとえAを発信して受け取ったときにそれがBになったとしてもそれは一つの作品としての完成だと考えます。
その辺りの僕の作品を作る事に対する考えみたいなものは次回作の「ヒーロー」に散りばめられているので、合わせて読み取って貰えると面白いかもしれません。

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・ボクノブンシン

魂とカラダが別のものであるとして、魂からみればカラダは自分の擬似体であり、カラダからみれば自分の意思と精神である。「自分の存在」というくくりはどこが境界線でしょうか。明確には分からない。
自分から見える世界や触れる事の出来る世界全部「以外」で残ったものが自分である、と消去法でしか自分というものを導き出せない。
あれやこれや、少なくとも君「ではないのが僕」だ。

何処からが自分でどこまでが自分なのか、これもやはり分からない。自分を触る事は出来るし、感覚神経が「自分に触っている」と教えてくれるが、その触った部分が無くなったら自分ではなくなるのか。それもきっと違う。じゃあ「魂とやら」が自分であった場合、この体はなんなのか。ずっと「自分」と呼んできたけど、実は自分ではないかもしれない。となると自分だと思ってる自分と、自分だと気付いて居ない自分の二人が存在する事になる。僕らは二人で一つ、正に一心同体。
僕である僕、今やっと認識したよ。今まで知らなくてごめんね。
初めまして、こんにちは(?)。

人と人、意思と意思が相互関係を持つ事を「社会」と呼び、そこで自分を形成している擬似体を俗に「アバター」という。例えばそれが電子コミュニティーの中でハンドルネームを持つ文字だけの仮の自分や、実際に操作もできるゲームのキャラクターまでをも含む。
これは自分の意思で仮の自分として動く擬似体があればそう呼ぶわけだからリアルな世界で自分と定義するものさえ曖昧で、一つである筈の自分が幾つもあることをも認識することが出来るのだから、「魂」から見た「入れ物の自分」もまたアバターと大差ないのではないか。反対に「自分以外」から逆説的に定義した「世界」だと勝手に思っているものが果たして本当にあるのか、無いのか証明する事も出来ないことにもなる。ひいては君は君であって君ではないのかもしれない可能性もある事になってしまう。
でも考えたってキリがない。

情動がそうさせるのか、脳が勝手に解釈するのか、人は喜んだり落ち込んだり優越感に浸ったり劣等感に苛まれたりと非常に忙しい生き物である。人は強くは無いから自分と言うものを自分でさえ受け止めることが出来ない。だから個には集、「社会」ってやつが必要で、一人では生きていけない。
もしこの世界に僕しか存在しなければ僕は自分を認識出来るだろうか。マイナスからしか導き出せない「自分」に、引き算する存在が居なくなったら多分無理だろう。
君が居なければ僕は成り立たない。だから僕が僕であるために君が必要だ。
そこに居てくれてありがとう。

それでも人間は愚かだから、どれだけのお人よしで心の清らかな人であっても自分以上に人を気遣う事も出来ない。人間も動物である以上例に漏れず本能がそうさせてしまうのだからこれはもう仕方がない。


君の世界にも僕は存在する。外部からは君じゃない僕だと認識出来るからだ。認識は記憶となって僕という存在がデフォルメされ、劣化コピーされて君の中に存在を複製する。僕と僕、君の中の僕。僕の中の君、君の中の君、誰かの中の僕と君・・・。無限に広がって複製されていく僕と君。だから君も僕もどこかで繋がっていて、僕や君を認識可能で記憶媒体のついている機械が存在すれば、そのマシンもまた、社会と僕の一部だ(?)。
テクノロジーはこうしてやんわりと社会と融合して来たと考えると、ネットで形成された社会はリアルの世界となんら変わりないと言われるのは不思議な事ではなくなり、希薄に感じるこの世界は僕らの知らないうちに思った以上に色んなものが融合し侵食し始めていて、僕や君が社会やテクノロジーと溶け込みすぎて、もとより曖昧な自我の境界線は日々その曖昧さが加速しているように感じるからなのかもしれない。
人が人を模した人形や考える機械を好んで作ろうとするのは自分単体で存在し得ない事を認識していて、誰かを求めたり作ってしまおうとしている行為なんだろう。この力は一体なんだろう。
これが愛の基本形なのかもしれない。

こうして僕の作る僕の社会と、君が形成した君が住む社会は二つあってでもやはり一つで、社会も人もそれぞれにパラレルワールドが無限に形成されている事になる。リアルだと思っている事は、想像以上に仮想が積み重なったファンタジーとも言えるかもしれない。


そんな曖昧な世界でなら、仮に自分が自分であって自分でなかったとしたら、許せる事や受け入れる行為ってのは思ってる以上に簡単に出来るんじゃないか。自分を認めてあげられないのは人を受け入れられない事も意味し、人を受け入れられないのは自分を認めてあげる事が出来ない事にもなる。角度を変えてみれば、人を受け入れることが愛で、ようやく自分を受け入れる準備が出来るのだとすれば、君も僕もきっと本当は一つで別の意思であるだけだ、とも言えるのかもしれない。
意思が違うから人を受け入れられないのか、自分じゃないものだから受け入れる事が出来ないのか?意思は考えや見た目が違うと認識している情報のせいで受け入れられないのか。感覚が希薄で僕や君を色濃く感じ取れないから駄目なのか。
ここでもやはり、人それぞれの意思や考えは分からないしキリがない。

人を受け入れるところから始まる自分。そういえば偉い人も言っていた、それが真の愛の形だと。でも自分さえ愛せないのに人を受け入れることなんて出来るだろうか。いや、きっと違うんだ。
君は僕で僕は君だから。自分を愛せば人を受け入れるしかなくなり、人を受け入れればそれは逆説的に自分をちゃんと愛せているという事だ。君を受け入れる事は自分を受け入れる事でもあるから、もう少し自分を認めてあげてもいいじゃないか。そこからなら始められるかもしれない。

自分に言い聞かせる。自分は頑張ってる、大丈夫だと。
それは、実は誰かに語りかけている事になるのかもしれない。
友達や恋人に「頑張れ、お前なら出来る」と励ましてみる。
それは、実は自分に言っている事なのかもしれない。
だとしたら、人を励ます事も自分を受け入れることも実は大差が無い事なのかも知れない。

この問いかけも、意味を考える事さえきっと無駄な事だし、もしそこに正しい答えがあるのだとしてもきっと何かが根本的に変わる事は無いだろう。愛や意思疎通の正義を説いて回り、徒労に終わった先人達が沢山居たから。
完璧な答えなんてこの世には存在しないし、多分大抵の事なんて結構曖昧なままの方がいいんだ。だから面白い事だってある。
君は僕かもしれない、僕はやはり僕かもしれない、
やっぱり君かもしれない。
分からない。
分からないけどこんな事を考える前と同じく、君も僕も確かに存在する。

だからせめて、改めて見つけた自分にこんにちは。
そして頑張れ。

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